聖なる杯

2015年07月11日 15:18

キリストは、最後の晩餐を終えて、ゲッセマネの園と呼ばれるオリーブの木の山へ行きます。そこで、脂汗をしたたらせながら、神に祈ります。

「この苦しみの杯をとりさってください」

迫り来る、肉体的な苦痛と恐怖を、彼は知っていたのでしょう。

避けられないこともわかっていて、祈らざるを得なかったのでしょうね。聖書のこの箇所は、読んでいて胸が苦しくなる場面です。

「杯」は、自分が受け取り、飲み干すべき運命のシンボル。

スピリチュアルな学びは、自分の「杯」をみつけ、そこに注がれる運命を知ることだと、思っていました。

今は、「杯」は、自分の外側にあるのではなく、自分自身が自分の「杯」なのだと思います。自分それ自体が、運命を受け取る器。

それを理屈でなく体感することが、スピリチュアルな学びなのだと感じています。

その杯に注がれるものを、水と認識するか、ワインと認識するか、スープとして味わうかで、運命が変わっていくのだと思います。今、この瞬間に感じていることで、また思いは変わるかもしれません。

今は、どのような運命が注がれているのか?味わい、楽しみ、消化したいと思います。

愛と感謝